知らない民藝

思 もくじ

1. なぜ「民藝」を調査しているのか
2. 調査方法
3. 民藝とは
4. 南砺市の民藝
5. 今の時代における民藝
6. 今後
7. 謝辞

1. なぜ「民藝」を調査しているのか
3 年前民藝に興味を持った。それは一度目の富山生活の際、あるお店に行くようになってからだと思う。 そして月日は流れ、二度目の富山生活。「南砺市」 富山の中でも変わった地域で、民藝との関わりが深いと聞き、協力隊活動として民藝を調べてみることにした。それが新しい発見、「南砺市の民藝」として何か協力できることになればと始めた。

2. 調査方法
3 年間の協力隊期間があるので、まず 1 年は活動範囲・調査対象をとにかく広げてみることにした。民藝かどうかは気にせず、民藝に関わりそうなことを調べた(工芸、美術、古道具等)。調査方法は工房 を訪れ話を聞き、モノと人を見ること。わからないことがあれば本を読んだ。そして撮った。 調べれば調べるほど、わからないことが増えていく。それを知るためにまた調べる。そんな 1 年だった。
以下で述べるのは 1 年の調査をまとめた文章である。写真でのまとめが「眼」である。

3. 民藝とは

まず民藝とは何か。言葉としての意味は柳宗悦らの造語であり「民衆的工芸」の略であり (※)、工芸の中の1 つとしている。

「何が民藝か」「民藝とは何か」

これらの問いに対する明確な答えがわかることはなく、ずっと問い続けることになるだろう。だが、現在の私の考えは

「民衆が作り生活に結びついた美しいもの」

民藝という言葉が造語なので造った人の意図を大切にしたい。民衆的とは何か。それは生活だと思う。 飾っておくものではなく、実用のものである。そして何より美しいものである。

柳らの言葉の意図をどこまで汲み取れているのかわからないが、私は民藝はこのようなものであると解釈した。以下柳の言葉を記す。

“実用を離れるならそれは工芸ではなく美術である”

“ 名もなき職人が実用のためにつくり、庶民の日常生活の中で使われてきたものこそ美しい。”

色々なものを見ると「これは民藝である」と決めるより、「これは民藝ではないな・・・」と思うことが多い。もちろん主観ではあり、柳が思う民藝ではないかもしれない。ここでは私の考えが正しいかどうかではなく、私の考えがこうであり、その理由を述べた。そしてこの考えを元に話を続けていく。

※初めからこのような考えを持っていたわけではなく、資料を読み、ものをみて、人と話す中でこういう考えではないのかと思い始めた。今後考えが変わっていく可能性はある。

4. 南砺市の民藝
次に南砺市の民藝について述べる。「南砺市の民藝はこれだ!」と確定はできない。「南砺市の 民藝はこれだと思う」としか言えない。「なぜ南砺市の〇〇は 民藝ではないのか」という意見もあるだろうが、そこに関しては触れない。明確な理由があるが、それよりも「なぜ ×× が 民藝だと思うのか」にページを割きたい。

※[3. 民藝とは ] で述べた考えがベースなのでそれに当てはまらない、もしくは当てはまるかわからないものを外したと考えても良い。

まず南砺市 ” と ” 民藝の繋がりから述べる。

「柳宗悦」と「信仰心」

この 2 つが強く関連していると思う。 まずは「柳宗悦」

日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎむねよし)は、1889 年に現在の東京都港区で生まれる。1910 年、学習院高等 科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳は、1913 年に東京帝国大学哲学科を卒業する。その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925 年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。1936 年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後 1961年に 72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開していった。晩年には、仏教の他 力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれた。

( 日本民藝館 HP より引用 )

柳と南砺市の関わりは2つある。まず、柳の造語とされている「土徳」という城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した言葉がある。「土徳」に関する記述がある書物はないらしい。言葉の意味は


「この土地に根付いた民衆の精神風土」

はっきり説明できなくとも、南砺市民に行き渡っている言葉である。富山県内なら知られている言葉なのかもしれない。 私は移住してきた時この言葉を知らなかった。所属している団体の「土徳コイン」という地域通貨構想の名前で初めて知った。この言葉を小学生も知っていることに驚き、この土地の浄土真宗への思いが強いことを実感した。

次に柳宗悦が善徳寺で『美の法門』を書いたということは、 売り文句のようによく聞く。書いた事実に大きな意味はなく、 柳宗悦がこの南砺市という土地にきて何かを感じ、それを文章にした。その” 何か” を感じさせるものがあったという ことの方が大切だと思う。その” 何か” が土徳という言葉に繋がったのだろう。

2 つめの「信仰心」

南砺市は信仰心が強い。特に浄土真宗。それを外から来た者には強く感じられるが、市民にとっては当たり前である。そこに面白さを感じた。 昔は何かあると「寺か神社に行った」という。

この町では今もそれを感じることができる。神社と寺の数は多く、遺贈としてそれらに寄付することも日常的にある。男の子が生まれた時に天神さまを買うという風習も面白いと思った。(富山県内でも見られるらしい)

この「信仰心」が柳のいう「土徳」に繋がったのだろう。そしてその「土徳」が民藝の精神をつくったと考える。

では南砺市の民藝は何か?
私は以下の 3 つを挙げる。
1つめ [ 五箇山の和紙 ]
これは越中和紙の 1 つとされ、寒さの厳しい五箇山で作られる和紙。和紙の制作過程に民衆の心が見られる。材料から育てて、毎年同じものを何枚も作る。漉くのは手で、寒い冬の季節だ。 和紙自体も美しい。だが、そこに意図は見られない。何度も作り続けてきた中で生まれた美しさである。 今では使われる機会が減ったが、障子がある家には欠かせないものだ。もちろん紙としても使う。

2つめは[絹織物]

蚕から得られる素材であり、生物を殺して得ることのできる素材である。私たちが生物の死の上に生きているということを実感しにくい今、絹は私たちにそのことを実感させ、生物に感謝できる機会をもたらしてくれるかもしれない。

私はある絹織物の会社を訪れて蚕の話を聞いた。生物から得られる美しい絹。ここにも信仰心のようなものが見られた。絹は主に服として使用されるが、昔は襖にも使われていたらしい。

3 つめは [ 庄川挽物 ]

庄川は砺波市だが、作っているところが南砺市にもあるので入れる。

挽物とは天然の木を使った工芸品のこと。その魅力は、天然素材ならではの繊細かつ重厚な肌触りと、自然の杢目の美しさを活かしたものづくりにあります。

( 庄川木工挽物会より引用 )

この挽物は上記の説明にある通り、木そのものの美しさが伝わる。それが器として普段使いができる ことが良い。 木なので一つ一つ表情が異なり、使っていくうちに味わいが出てくる。ツヤと渋み。

以上 3 つが私の考える南砺市の民藝である。

ある人が言っていた。「民藝は精神である」と。その精神を感じたものが上記の 3 つだったのかもしれない。

5. 今の時代における民藝

民芸ブームが再来しているのかもしれない。悪い意味での広がりかたにならないようにしたい。 以前はお土産としての民芸 ” 品 ” が浸透したらしい。

その時は精神ではなく”モノ”だけが、いや”モノ” も伝わってないかもしれない。 古いものはなんでも民芸 ( 品 )。そうなってしま うことは怖い。なぜか。

モノの消費になってしまうからだ。それでは大量生産大量消費の時代と変わらない。少なくとも民藝はそうであってほしくない。

ましてや「地方の行った時のお土産として買うもの」として浸透すると、各地でモノ(お土産)の消費合戦になり、根本の精神や風土が伝わらない。 継続していく上で売れることも大切だが、売ることを目的としてしまうとそれは民藝ではなくなってしまう。

(民藝であることが目的でないのは当たり前だが・・・)

ここは難しい部分である。私個人が言っても作り手はそうはいかない。

だが、買い手の精神に声を届けることはできると思う。

私は良い買い手でありたいと思う。そして買った物から何かを学びたい。

6. 今後

民藝に対して私はこれから何ができるだろうか。

あまり大きなことをやろうとせず、「発見」と「発信」 を行っていきたい。

発見はまだ光が当てられていないものを見つけること。

私の主観ではあるがいいと思えるものは富山県内でもまだまだある。それが無くなる前に見つけ たい。

発信はそれらを南砺市、富山県、そして全国、世界に伝えること。

無知、無視を減らしていきたい。 たかが一人の発信力でも何人かには届くだろう。いいと思った人に広めてもらえれば幸いだ。そんな人を少しずつ増やしていきたい。


上記の 2 つを民藝に囚われず、工芸、美術、文化、人間、自然に関して行っていく。それが民藝であるかは大した問題ではない。私の行動が誰かの南砺市・ 富山を知るきっかけになればいいと思う。そして民藝に興味を持ってくれる人がいれば幸いである。

7. 謝辞

調査の中で写真を撮影させていただいた方、話をしていただいた方ありがとうございました。

資料を読むだけ、モノ見るだけでもいけない。両方やってこその調査だと思っていたので、それを実現できたのは

ただ民藝について興味があるだけの私に話をしていただき、ものを見せてくれた方がいたおかげです。また、紹介をしていただき多くの人と出会うことができました。

写真を撮らせていただいたにも関わらず掲載できなかった方には申し訳ないです。何かの機会に発信できればと思います。

私自身「南砺市民藝調査委員会」という市の事業にも携わることができ、公的な活動としても民藝と関わることができました。民藝と深く関わることができた南砺市に感謝いたします。ありがとうございました。


この冊子が” 何か” のきっかけになることを願って・・・

2022 年 2 月 吉野玄暉

参考文献
・柳宗悦、柳宗悦選集 第1巻 工芸の道 , 春秋社 ,1955
・柳宗悦 , 美の法門 , 岩波書店 ,1955
・ 式場隆三郎 , バーナードリーチ , 建設社 ,1934
・原田マハ , リーチ先生 , 集英社 ,2016
・工芸青花 ,『工芸青花』15 号 , 工芸青花 ,2020
・出川直樹 , 民芸 理論の崩壊と様式の誕生 , 新潮社 ,1988
・尾久彰三監修 , 柳宗悦の世界「民芸」の発見とその思想 別冊太陽 , 平凡社 ,2006
・山田和 監修 , 永遠なれ魯山人 この型破りな才能、後にも先にも 見あたらず 北大路魯山人没後60年記念 別冊太陽 日本のこころ 275, 平凡社 ,2019
・安川慶一 , 生涯求美 蒐集と周辺 , 用美社 ,1990 ・軸原ヨウスケ・中村裕太 , アウト・オブ・民藝 ,2019
・日本民藝館 , 用の美 上・下 [ 柳宗悦コレクション ],世界文化社 ,2008
・バーナーとリーチ , 東と西を超えて , 日本経済新聞社 , 昭和 57 年


・濱田 琢司 , 民芸ブームの一側面 : 都市で消費された地方文化 , 人文論究 ,2002

・柳宗悦と日本民藝館 , 日本民藝館 , 公益財団法人日本民藝館,2021.10.29,https://mingeikan.or.jp/about/soetsu /

・庄川木工挽物会とは , 庄川木工挽物会 , 庄川木工 挽物会 , 2021.11.10,https://www.shokoren-toyama.or.jp/ ~shogawa-wood/about

・窯場へようこそ , お花畠釜 , お花畠釜 , 2021.11.10,http://www.ohanabatake66.jp/about.html

・ABOUT, 北陸工芸の祭典 GO FOR KOGEI, 北陸工芸プラットフォーム実行委員会 , 2021.11.5,https://goforkogei.com/about2021/

・金京徳「黒化粧 丸皿」|水と匠オンラインストア , 株式会社 水と匠 , 2021.11.5,https://store.mizutotakumi.jp/items/2 8655673

・光徳寺 , 旅々なんと ,(一社)南砺市観光協会 , 2022.1.12,https://www.tabi-nanto.jp/archives/618

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